らくの貞室(ていしつ)、須磨のうらの月見にゆきて「松陰や月は三五や中納言」といひけむ、狂夫
(きょうふ)のむかしもなつかしきままに、このあき鹿島の山の月見んとおもひたつ事あり。
ともなふ人ふたり、浪客(ろうかく)の士ひとり、ひとりは水雲の僧。(中略)
いまひとりは、僧にもあらず、俗にもあらず、鳥鼠(てうそ)の間に名をかうふりの、とりなきしまにも
わたりぬべく、門よりふねにのりて、行徳といふところにいたる。(中略)
やはたといふ里をすぐれば、かまがいの原といふ所、ひろき野あり。(中略)
つくば山むかふに高く、二峯ならびたてり。かのもろこしに双剣のみねありときこえしは、廬山の一隅也。
「ゆきは不申先むらさきのつくばかな」
と詠めしは、我門人嵐雪が句也。(中略)
日既に暮かかるほどに、利根川のほとり、ふさといふ所につく。(中略)
よひのほど、其漁家に入てやすらふ。よるのやどなまぐさし。月くまなくはれけるままに、夜舟さしくだして
かしまにいたる。
「雲速し 梢は雨を もちながら」 (芭蕉)
「寺に寝て まこと顔なる 月見哉」 (芭蕉)
「雨に寝て 竹起きかえる 月見哉」 (宗波)
「月さびし 堂の軒端の 雨しずく」 (曾良)
貞享4年(1687年)、芭蕉44歳、旧暦8月14日(新暦9月6日)に深川を出
立、行徳〜鎌ヶ谷〜我孫子〜鹿島〜潮来を経て江戸に戻る300キロの旅、
その足跡をたどって描いた「鹿島スケッチ紀行」を紹介致します。