旅の思い出: 10月22日の夜中0時に明日香村を出発し、浜田市役所の駐車場に午前7時半に到着しました。
8時半に市役所の観光課に伺い、柿本人麿が亡くなられたとされる城山(旧鴨山)と浜田川(旧石
川)についてお尋ねしたところ、浜田市教育委員会 文化振興課 文化財係長の原裕司氏を紹介し
ていただきました。お忙しい中、約2時間に渡り丁寧に教えて頂き、貴重な文献のコピーをいただき
ました。
石見軍記、石見名所方角図解、浜田鑑、石見外記、新修島根県史、浜田市教育委員会資料等です。
浜田市では文化財係長の原さんが一番お詳しく、「人麿の運命」の著者古田武彦氏に講演会をしていた
だいた時の担当者だったそうですが、その方のいわれるには、これらの資料は全て1級資料ではなく、そういわれ
ていたとか、それらしいとかいった範囲のものばかりであるとのことです。
この中で一番古い資料は「石見軍記」ですが、その中に毛利との浜田合戦が浜田石川で戦われたと記され
ているものの、浜田川が石川であるとはいっておらず、それを根拠に誰かが言い出した程度のものだそうです。
その戦いを裏付ける1級戦記には一切記載がないし、誰かが誰かのものを写し書きしたものだそうです。
原さんは、人麿がここで亡くなられたことはあまり信用していないそうで、古田武彦氏に対しては既に本をお書
きになっているので、その場ではあえて反対はしなかった程度であるとのことでした。
その後あちらこちらとスケッチ場所を散策した後、旧石川といわれている浜田川の対岸から旧鴨山といわれてい
る城山を描きました。このとき、人麿の妻の依羅娘子(よさみのおとめ)が詠った次の2首の歌を思い出しました。
「今日今日と わが待つ君は 石川の 貝に交じりて ありといわずやも」
(今日か今日かと私が待っていた貴方は、石川の貝に交じっているというでは
ありませんか。何ということでしょう。)
「ただの逢ひは 逢ひかつましじ 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲はむ」
(直接貴方にお会いすることは今やかなわぬことですが、せめて貴方の亡骸の
沈んでいる石川に雲が立ってほしい、それを見て貴方を偲びましょう。)
ここがその石川であるといわれているところです。ふと次の歌が生まれました。
「人麿の 妹が嘆かん 石川の 貝になりてか 浜(田)の真砂は」
「鴨山の 岩根し枕ける われをかも 知らにと妹が 待ちつつあらん」
(万葉集 223)
自作の歌
和歌の意味: 鴨山の岩場で岩を枕にして死を待つ私であるのに、それとは知らずに、妻は私の帰るのを
今か今かと待ち続けているであろうよ。