旅の思い出: 昔、ここ櫻井市の戒重には、現在ある春日神社の辺りに、大津皇子の屋敷である「訳語田(おわりだ)
の宮」があったそうです。
大津皇子は、謀反の疑いを受け、近くの磐余(いわれ)の池で死罪となっていますが、これは草壁皇子
の母(持統天皇)が、自分の息子を天皇にしたいために仕組んだ陰謀とも言われています。
かつての訳語田の宮には多くの皇族が出入りしていますが、その中に河島皇子がおりました。
河島皇子は、 天智天皇の皇子で、母は色夫古娘(しこぶこのいらつめ)、妻は天武天皇の娘泊瀬部
(はつせべ)皇女です。
大津皇子と親交があって大津皇子の異母兄であったが、686年の大津皇子の謀反が暴露された際に
は大津皇子の計画を告発したとされています。
万葉集には1首歌を残しています。
伊の国に幸す時に、川島皇子の作らす歌 或いは云く、山上臣憶良が作
「白波の浜松が枝の手向(たむけ)くさ幾代までにか年の経ぬらむ」 (万葉集 34)
(白波の寄せる浜辺の松の枝に引き結んだ御供えは、どれほどの年月が経ったのだろうか。)
一方、河島皇子が35歳で亡くなられたときに、人麿が泊瀬部皇女と忍壁皇子に献じた歌が万葉集に残
されています。
柿本朝臣人麻呂、泊瀬部皇女(はつせべのひめみこ)忍坂部皇子(おさかべのみこ)に献(たてまつ)れ
る歌一首並びに短歌
「飛ぶ鳥の 飛鳥の河の 上(かみ)つ瀬に 生(お)ふる玉藻は 下(しも)つ瀬に 流れ触らばふ 玉
藻なす か依(よ)りかく依り なびかひし 嬬(つま)の命(みこと)の たたなづく 柔膚(にぎはだ)すら
を 剣刀(つるぎたち) 身に副(そ)へねねば ぬばたまの 夜床も荒るらむ そこゆゑに 慰めかねて
けだしくも あふやと念(も)ひて 玉だれの 越智(おち)の大野の 朝露に 玉藻はひづち 夕霧に 衣
はぬれて 草枕 旅宿(たびね)かもする あわぬ君ゆゑ」 (万葉集 194)
反歌一首
「しきたえの袖易(か)へし君玉だれの越智野過ぎゆくまたもあわめやも」 (万葉集 195)
この歌は、河島皇子の妃である泊瀬部皇女の気持ちを歌ったものであろうが、上記の歌は、逆に河島皇子
の気持ちを歌ったものと想定して、河島皇子が大津皇子と一緒に住んでいたと思われる訳語田の宮があった
とされる櫻井市戒重を眺望してスケッチしました。
現在訳語田の宮の場所がどこであるかはつかめず、スケッチしつつ、その思いを歌にしてみました。
「訳語田の 宮はいずこに あるらんか 遠くながむる 櫻井の町」
「何時はしも 恋ひぬ時とは あらねども 夕かたまけて 恋は為方無し」
(万葉集 2373)
自作の歌
和歌の意味: 何時とはいわず、恋しないときはなく、一日中、貴女が恋しくて仕方がないが、特に
夕方になるとそのやるせなさはどうであろうか、何ともすべないものである。