旅の思い出: 昔、ここ明日香村の島の庄に「島宮」と呼ばれる宮殿があったとされています。

         すぐ近くに、蘇我馬子の墓といわれている有名な「石舞台」があります。

         もともと、この島の庄には蘇我氏(島大臣と呼ばれていた。)の邸宅があったそうで、蘇我馬子が亡くなった

        後も蘇我氏が邸宅周辺を所有していましたが、大化の改新後の蘇我氏の滅亡で、天皇家が馬子邸を含む広

        大な土地を没収して、その跡地に島宮が建てられたと日本書紀に記されております。

         平成15年(2003年)から島の庄遺跡 の発掘調査が行われ、島大臣(蘇我氏)の邸宅跡、中大兄皇子の宮

        殿跡及び天武天皇の皇太子の草壁皇子らが住んだとされている「島宮」の跡が登場しており、こうした有力者

        の住まいが集中していたと見られています。

         ということは、この周辺で「島宮」を中心とした「宮の文化」即ち飛鳥白鳳の文化が開花したと想像することは、

        容易いことであると思います。その中心人物は当然皇太子の草壁皇子です。

         草壁皇子は天智元年(662年)に天武天皇と持統天皇との間に産まれ、妃は天智天皇の皇女で持統天皇の

        異母妹である阿閉皇女(あへのひめみこ)で後の元明天皇です。

         壬申の乱では最初から父母と行動を共にし、天武10年(672年)に皇太子となっています。しかし皇太子は即

        位することなく持統3年(689年)に突然亡くなってしまいました。

         草壁皇子のことを日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)ともいい、殯宮(あらきのみや)の時、柿本人麿が次の

        歌を詠っています。殯宮とは本葬までの仮に棺におさめ安置しておく宮のことで、島の宮に造られました。

          「島の宮 勾(まがり)の池の 放ち鳥 人目に恋ひて 池に潜(かづ)かず」   (万葉集 170)
                            
            (島の宮の勾の池で放し飼いにしている鳥も、草壁皇子の薨去を淋しく思い、人目を恋しがって池に潜り

            もしない。)

         草壁皇子は、生前に石川郎女と親しくしており、石川郎女はまず草壁皇子の思われ人になった。

         また、大津皇子にも愛され、万葉集には、大津皇子と石川郎女そして草壁皇子の関係を示す和歌4首が並ん

        で載せられています。

         大津皇子の、石川郎女に贈りたまへる御歌一首

            「足引の山のしづくに妹待つと吾(あ)が立ち濡れぬ山のしづくに」  (万葉集 107)

         石川郎女が和へ奉れる歌一首

            「吾(あ)を待つと君(きみ)が濡れけむ足引の山のしづくにならましものを」  (万葉集 108)

         大津皇子の窃に石川女郎を婚きし時に、津守連通その事を占ひ露はせるに、皇子の御作りたまひし歌             

            「大船の津守(つもり)の占(うら)に告(の)らむとは まさしく知りて我が二人寝し 」  (万葉集 109)

            (津守の占いで告げられると知りながら、私は二人で寝ましたよ。)
     
         そして、その後に、草壁皇子の次の一首が載せられています。

         日並皇子の尊の石川女郎に贈り賜へる御歌一首   女郎、字ヲ大名児ト曰フ

            「大名児おおなこ)彼方(おちかた)野辺に苅る草の束(つか)のあひだも吾忘れめや」  (万葉集 110)

            (大名児、石川女郎よ、彼方の野辺で草を刈るつかの間も、お前のことを我は忘れないぞ。)

         石川郎女は、大津皇子と草壁皇子との二人の皇子から愛されていたのですが、どちらかといえば大津皇子に

        軍配があったようです。

         いずれにしても、当時の結婚は妻問婚であり、女は成人した後でも親の家に残り、夫はそこへ通うという結婚

        生活であったため、彼女をはじめとして当時の女性達がかなり奔放な恋愛を楽しんでいたことが察せられます。

         上記の歌は、正に当時の女性達の気持ちを歌ったもので、ここ島宮でもこうした物語があったと想定して、ここ

        「島の庄」をスケッチしました。

         2003年からの発掘調査で明らかになりつつも、草壁皇子がいた島宮の場所がどれであるかはつかめず、

        スケッチしつつ、その思いを歌にしてみました。

             「飛鳥川 上りて行けば 島の庄 島の宮とは いづこにありな」

 





「ぬばたまの この夜な明けそ 赤らひく 朝行く君を 待たば苦しも

                                        (万葉集 2389)

自作の歌

飛鳥川

上りて行けば

島の庄

島の宮とは

いづこにありな

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和歌の意味:   夜が明けて赤く明るくなっていく朝が怖い。夜よ、明けないでおくれ。私は、朝帰っていく貴方を

         一日中待っているのが辛いから。

          

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