旅の思い出:  10月15日は快晴となり、八釣の里を描いた後更に高家(たいえ)の里を描きました。

          稲は黄金のように実り、万葉の頃の豊かな高家の里を思い浮かべました。

          この辺りは、昔「高屋」といわれていたのではないか、そしてまたここに舎人皇子(とねりのみこ)の

         屋敷があったものと想定してここを描きました。

          なぜならば、舎人皇子の歌に次の歌があります。

            「ぬば玉の夜霧ぞ立てる衣手の高屋の上にたなびくまでに 」    (万葉集 1706)
           
            (夜の霧は深く一面に立ち昇った。衣の袖を濡らし屋敷の高殿の上まで掛かり、もはや私の

        屋敷の隅々にまでしみ込んでいるようだ。)


          これは舎人皇子の屋敷で催された宴席での歌といわれていますが、舎人皇子の天皇擁立の動きも

      あり、不穏な世の中の動きを象徴的に詠っています。

       
舎人皇子は、天武天皇の皇子で、母は天智天皇の皇女新田部皇女でした。同じ天武天皇の皇子で

      ある大津皇子が持統天皇
の計略で死罪となっています。

          ここで言う「高屋」が地名か否か分かりませんが、高屋と高家とが結びつくように思われるからです。

          更に舎人皇子は次のような歌を詠っています。


            「ますらおや 片恋せむと 嘆けども 醜(しこ)のますらを なお恋にけり」   (万葉集 117)

            (大夫たるもの片思いはしないと言い聞かせるけれど、自分はみっともないかもしれないが、

            また恋してしまいそうだ。)


           この歌を更に人麿が代弁して詠ったものが、上記の歌であると考え、当時この辺りに住んでいと思

          われる舎人皇子が恋に悩んで一日中ぼんやりとしていたものと想定してこの場所を描きました。
 
           その頃の豊かな田園風景を思い浮かべて、

               「万葉の 黄金(こがね)の稲穂 今もなを 高家(たいえ)の里は 豊かなりけり」

         




          

「健男の 現し心も われは無し 夜昼といはず 恋ひしわたれば」

                                          (万葉集 2376)

自作の歌

万葉の

黄金の稲穂

今もなを

高家の里は

豊かなりけり

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櫻井市高家(たいえ)の里

和歌の意味:  恋はたくましい男の心を狂わせるものである。夜も昼も貴女のことを思っているので、

         どうにもならず、覚めた確かな心もなく現実処理の理性を失ってしまった。

          

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