旅の思い出:  これは、海岸の沖合いに鴨山という島があったとされている益田市にある柿本神社の本殿を

         正面から描いたもので、本殿の左手に柿本人麿坐像があります。

          柿本神社縁起によれば、この神社は聖武天皇の神亀年間に、人麿公の逝去後間もなく、国司

         が勅命を奉じて終焉地たる鴨島の地に社殿を建立したのが起源です。


          万寿三年(1026年)の断層地震による大津波のため社殿と島とが海中に陥没したと伝えられ

         ています。この時、人麿公の尊像が松崎に漂着されたので、この地に社殿を建立しました。

          江戸時代に津和野藩主の尊崇あつく、延宝九年(1681年)に亀井藩主により風波の難の届か

         ないこの場所に移転再建されました。


          12時間かかって漸く輪郭が取れましたが、あたりが暗くなり着色するのをやめました。

          描いている間中、神社の神主の奥様から、お茶やお菓子のご接待をいただき恐縮しました。

          また、不思議なことに、人麿研究ではこの地方を代表される石見郷土研究懇話会支部長の

         中島耕二様が突然来られてお会いすることができました。

          神主の奥様のお言葉をお借りするならば、「寄寓にもめったにこられない中島様がお見えになり、

         こうしてこの時間に二人がお会いするのは、神の計らいによるものとしか考えられません。
      
         本当に不思議なことでした。」とのことで、後日ご丁寧なお便りをいただきました。


          この時、絵を描きながら、中島様にご講義を頂きまして、次の2点について重要なことを教わりました。

          @ 上述の人麿の短歌において、「鴨山の 岩根し巻ける・・・・・・・・」の「巻ける」を通常は「枕ける」

           と解釈しているが、「岩を枕にする」というのはあまりにも不自然で、体を丸めている状態の「巻ける」

           と解釈するのが正しいとのことでした。 それに従ってここでは「巻ける」といたしました。

          A 万葉集132の歌の前に、「柿本朝臣人麻呂の、石見の国より妻を別れて上り来たりし時の歌二首」

           とあるが、ここでいう「上り来たりし時」という言葉には特別な意味があるとのことでした。

            過去の古事記や日本書紀等古書を調べてみると、「上り来る」という言葉は6箇所使用されていて

           いづれも、天皇もしくは天子様が天に上られる時、または天皇もしくは天子様の勅命により行動を指

           示された場合にのみ使用されているとのことでした。

            従いまして、万葉集では「都へ上る」という解釈は間違っており、後世の人たちが勝手に解釈したも

           のであるとのことでした。

            確かに、あの二首の歌の前に、都へ上るという気楽な解釈は若干無理があるように思います。

            それはあまりにもこの詠われた二首が悲痛なためです。ただ単に都へ行くために妻に分かれるの

           であれば、「靡けこの山」などという悲痛な叫びは出てこないと思われます。

             人麿としては、二度と妻に会えないであろうという何か自分におこる重大な事柄が予測されたに

            違いありません。天皇からの勅命を受けて人麿は何かをするか、させられたに違いありません。


          この二つの講義を楽しく伺いながら、この絵を描けたことに対し心より感謝したいと思います。


          前日の夜に益田の中須海岸へ行って海を眺めました。鴨山が陥没したといわれている沖合いに

         イカ船が明りを灯し、何か人麿の霊を弔っているような錯覚に陥りました。そこで一首、

             「鴨山は 海の底にて ねむりたる 益田の沖を 灯すイカ船」






「鴨山の 岩根し巻ける われをかも 知らにと妹が 待ちつつあらん」

                                            (万葉集 223)

自作の歌

鴨山は

海の底にて

ねむりたる

益田の沖を

灯すイカ船
高津柿本神社

和歌の意味:  鴨山の岩場で体を丸くして死を待つ私であるのに、それとは知らずに、妻は私の帰るのを

         今か今かと待ち続けているであろうよ。

          

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