旅の思い出: この絵は、高市皇子が亡くなられた折に、柿本人麿が高市皇子のために挽歌を詠った
場所即ち殯宮(ひんきゅう、あらきのみや、もがりのみやとも読む)が置かれた城上(きのえ)
の宮の近くにあった久米寺の跡を描いたものです。
殯宮というのは、崩御された天皇や天子たちの棺を葬送するまで安置する御殿です。
高市皇子は、天武天皇の第一皇子ですが、身分の低い胸形尼子娘(むなかたのあまこの
いらつめ)を母とするため、皇太子にはなれませんでした。
しかしながら、壬申の乱ではいち早く父の元へ駆けつけ、軍事の全権をゆだねられ大活躍
をしたため、天武天皇の皇親政治のもと重要なポストを占め、持統天皇時には太政大臣に任
命されました。このときから死ぬまで、高市皇子は皇族・臣下の筆頭として重きをなし、持統政
権を支えました。
昔、常宮(とこみや)といわれて永遠に続く宮と称された「城上の宮」は今は跡形もなく、私が
たどり着いたのは、この久米寺跡でありました。そこで一首詠みました。
「常宮の 城上の宮は 今は消え 心かなしも 一人尋ねん」
「ひさかたの 天知らしぬる 君ゆえに 日月も知らず 恋ひ渡るかも」
(万葉集 200)
自作の歌
和歌の意味: 天下を治めるべき高市皇子はとうとう亡くなられて天を治めるようになってしまった。
それゆえ、月日のたつのも忘れて何時までも恋い続けることよ。