「遠山に 霞たなびき いや遠に 妹が目見ずて われ恋ひにけり」

                                     (万葉集 2426)

自作の歌

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和歌の意味:  遠い山に霞がかかっているように、いとしい貴女に逢えずに遠くはなれているので、

         私は貴女が恋しくてたまらない。

旅の思い出:  この歌は柿本人麿の歌ですが、私はこの歌を聞いて人麿が大津皇子の気持ちを歌ったので

         はないかと思いました。

           人麿が明日香に住んでいたころは、浄御原宮を中心として天武天皇、持統天皇をはじめ多く

         の皇子、皇女の方々がおられました。

           皇子としては、天武と持統の子である草壁皇子をはじめとして、忍壁皇子、高市皇子、大津

         皇子、軽皇子、新田部皇子、舎人皇子、長皇子、弓削皇子、志貴皇子、穂積皇子、河島皇子の

         面々がおられたようです。

           また、皇女としては、安倍皇女、日高皇女、泊瀬部皇女、大伯皇女、山辺皇女、十市皇女、

         但馬皇女、御名部皇女、明日香皇女、紀皇女といった方々がそれぞれの宮殿に住んで、相互

         に往来し交流して、皇族中心の政治下において和歌興隆の大和の文化をはぐくんだものと思わ

         れます。

           その中にあって、柿本人麿のような専門的歌人が皇子・皇女の宮における文芸の担い手と

         して活躍し、時として人麿は亡き皇子の妻の立場に身をおいて歌を詠っています。

           ここに示した歌は、万葉集には何時誰のための歌とは明記されていませんが、私は大津皇

         子の姉(大伯皇女)に対する思いを代弁していると強く感じました。
           
           大伯皇女と大津皇子は、ともに天武天皇の子ですが、唯一血のつながった兄弟でした。

           持統天皇とは腹違いであったため、大伯皇女は伊勢神宮の斉王として遠く離され、大津皇子

         は皇太子草壁皇子に対する謀反の嫌疑をかけられて24歳の若さで死罪になっています。

           二人の思いは、恋人のようであったとも伝えられており、大津皇子が秘かに伊勢神宮に下っ

         て都に戻るとき、大伯皇女が作られた次の歌二首が万葉集に載っています。

           「わが背子(せこ)を大和へ遣(や)るとさ夜ふけて暁(あかとき)露に我が立ち濡れし」

           「二人行けど行き過ぎがたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらん」

           人麿も二人の仲を知っていたに違いありません。

           大津皇子は、父天武天皇崩御半月後の686年10月2日に逮捕され、3日に訳語田(おさた)

         の宮の近くの磐余(いわれ)の池の畔で死刑に処せられています。

           その折に詠った歌が万葉集に残されています。

           「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」

           磐余の池は現在の櫻井市にあったようですが、今はありません。桜井市には磐余町という地

         名が残されており、その近辺を探したところ、絵に描いた「吉備(きび)池」を見つけました。

           池の正面遥か遠くに二上山が見えてますが、その頂上に大津皇子の墓があります。

           この池には案内板が隠れるように立っていて、次のように記されていました。

                  「吉備池瓦窯 7世紀中期、皇極天皇の時代、阿部倉梯麻呂が

                   百済大寺の造寺司に任命されている。」

           当時、磐余の池をはじめ、このような池があちらこちらにあったように思われます。

           この吉備池を磐余の池に見立てて一首、

             「空青く 磐余の池に 鳴く鴨に わびしさ告げよ 芦の枯草」






空青く

磐余の池に

鳴く鴨に

わびしさ告げよ

芦の枯草

櫻井市 吉備池
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