幻の長崎西国紀行
(西の奥の細道)




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 芭蕉は、41〜46歳の間に、5回の紀行を行っています。

 貞享元年(1684年)に「のざらし紀行」、貞享4年(1687年)に「鹿島紀行」

及び「笈の小文」、貞享5年(1688年)に「更科紀行」、そして最後に元禄2年

(1689年)「奥の細道」を行っています。
 その後、奥の細道を綿密に推敲した後、元禄7年に大阪に出て再び西国へ

向けて出立しようとした矢先に10月大阪で病に倒れこの世を去りました。

 芭蕉は以前から弟子達に「長崎」へ行きたいともらしており、亡くなる直前ま

で天橋立から長崎へ向い、彦山、不知火(しらぬい)、霧島そして薩摩潟へ行

く予定を立てていました。

 その旨を、弟子の去来(きょらい)や北枝(ほくし)、如行(にょこう)、荷兮(か

けい)に伝えた書簡が残っています。




 ここでは、恐れ多くも芭蕉に成り代わり、「長崎西国紀行」を計画し、元禄7

年旧暦10月12日(新暦平成18年11月中旬)に膳所(ぜぜ)、今の大津市の

義仲寺を出発、中国、九州、四国を巡って、平成19年5月に明石まで戻る

「幻の長崎西国スケッチ紀行(西の奥の細道)」を紹介いたします。

 


足跡を推定した根拠
紀 行 文

 
 西国への思い止まず、旅に病めども笞打ちて、直ちに橋立に赴き、長崎に
しばし足を留めて、唐土舟(もろこしぶね)の往来を見つつ、聞きなれぬ人の
詞(ことば)を聞かんとす。
 長崎は面白き処にて、阿蘭陀(オランダ)とかや人の住みて、春には江戸
に来たりて花見をしたり。

 「阿蘭陀も 花に来にけり 馬の鞍」                  はせを



                 
                   @上野不忍池


 「かぴたんも つくばはせけり 君が春」                はせを

                
                 A皇居田安門


 元禄七年神無月の初め、再び片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず、
支考(しこう)、惟然(きぜん)を伴ないて膳所の義仲寺を出でたり。
 いま一人江戸より俊愚と申す絵師の来たりて同行せり。われ霊の者にて
その身を借りて旅立ちぬ。

 「春に我 乞食病めても つくし哉」                   はせを


 我筑紫への思い並々ならぬ興に入りてとどまるところを知らず。
 香取の海は時雨にて、有明の月は雲に隠れたり。
 前途三千里、怪しげなる空の景色、この先いかばかりかと心細し。
 旅の門出にと、膳所の義仲寺にて時雨会(しぐれえ)を催さんと、人の多く
集いて我を供養せり。
 
 「時雨会に 会えて芭蕉の 供養かな」                 俊愚




                
                  B義仲寺


 ここ義仲寺は朝日将軍木曾義仲公の御墓所にて、日々ねんごろに供養せ
んと巴御前(ともえごぜん)の結びし草庵の跡なり。
 我遺言によりてここに眠りたり。

 京にては、落柿舎に立寄りて去来と長崎にて会わんと契りたり。        

 「熟せりと 京の契りの 柿の渋」                    俊愚


                
                  C落柿舎


 落柿舎はわが門人去来が草庵なり。嵐山の麓、嵯峨野にありてしばしば
逗留し、今生の昔「嵯峨日記」をしたためけり。

 京を過ぎて後、天橋立、出雲、彦島を巡りて筑紫に至らんとす。

 京北にて山柿のたわわに実りて、朝に残りたる月を見たり。
 山間の冷気の漂いて、おとなしげなる月の消え行く姿誠にわびしけり。

 「山柿たわわに残る月」                          俊愚

 俊愚の申しけるに、これ一句歌(いっくうた)と申すものなり。
 これ一くぎりの句のみにて余韻を残したるは、誠に歌の極意といわんや。




                
                D京北 細野


 天橋立は、昔、伊耶那岐命(いざなぎのみこと)の天に通いし処にて陸奥の松
嶋、安芸の宮島に並びて奇観を為すと春斎のいいける日本三景の一つなり。
 傘松の丘より橋立を望みて後、松の林を渡りて智恩寺の文殊堂を訪ねけり。
 
 「いざなぎの 秋に暮れけり 松の風」                 俊愚


                
                  E天橋立


 途中丹後の砂丘に寄りて、時雨に足とまどいていとあやしく、蓑笠まといて、
遠く海を眺めけり。

 「白砂に 渡る秋風 根なし草」                     俊愚


                
                  F鳥取砂丘




 その後出雲を抜けて、石見に這入り柿本人麿の俤を偲び、彦島にて壇ノ浦に
滅びたる平家一門の霊を慰めけり。
 出雲は、大国主神(おおくにぬしのみこと)のおわしけるに、八百万(やおろず)
の神々を拝し奉りて、子宝の成長を神に祈らんと詣でし人の多かりき。

 「七五三 子宝告げる 大太鼓」                     俊愚


                
                  G出雲大社


 石見の中須の浜より大瀬を望みて、人麿の入水したるを偲びたり。
 浜より五町程沖に鴨山と称せり岩山のありて、今は海の底にて、人麿の入水
せし折に詠みし歌を思い起こせり。
 「鴨山の 岩根し枕(ま)ける われをかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ」
 「石見のや 高角山の 木の際(ま)より わが振る袖を 妹見つらむか」
 人麿を偲びて

 「人麿の 袖振る浪か 秋の風」                     俊愚


                
                H益田 中須海岸


 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰のこ
とわりをあらはす。
 平家滅亡の地、壇ノ浦にて幼き安徳天皇の入水せらるる水底を眺めつつ、平家
一門の冥福を祈りけり。

 「旅時雨 たどりたどりて 壇ノ浦」                   俊愚



 「哀れやな 潮の流れに 散るもみじ」                 俊愚

 「冬日和 哀れを誘う 潮の底」                     俊愚

 「水底の 冬の寒さを 知る時し」                    俊愚


                
                  I壇ノ浦


 筑紫にては、大宰府、天満宮、彦山に参宮し、天平、平安の灯火を訪ねたり。
 大宰府は、昔天平の世に旅人と憶良と申す歌人のおわしけるに、筑紫歌壇と
申すべき万葉の世を築きたり。府跡に残りし礎石を眺めつつ、

 「若草や 礎石に浮かぶ 歌の影」                   俊愚

         
とう   みかど
 「梅の香や 遠の朝廷の かぐわしき」                 俊愚


                
                  J大宰府


 天満宮は、道真公を祭りし宮にて、「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 
あるじなしとて 春な忘れそ」と詠めし道真公を慕いて、京より一夜にて飛びき
たりて梅の咲きたる姿誠にけなげなり。
 我千里に旅寝して、飛梅を思い染めつつようようにして辿り着きぬ。

 「旅千里 思い染め来ぬ 梅の花」                   俊愚





 暫く大宰府にとどまりて、飛梅の花の飛び来たらんことを祈りけり。

 「飛梅や 京より便り 届きおり」                     俊愚


                
                  K太宰府天満宮


 彦山は、修験道の山にて、白装束の山伏が法螺(ほら)の音を響かせけり。
 山深く鳴り渡りて、春風ぞ吹く。

 「修験者の 法螺吹く声か 春の風」                  俊愚


                
                  L英彦山神宮


 長崎にては、去来、泥足(でいそく)とも待ち合わせ、しばらくは去来の実家にと
どまりけり。 通詞(つうじ)泥足の案内にて出島を訪ねけり。
 阿蘭陀(オランダ)とかや人の詞(ことば)を聞きて、阿蘭陀屋敷、唐人屋敷を巡
り、しばらく阿蘭陀船と唐土舟の沖に停まりし勇壮を眺めたり。
 誠にめずらしき処にて、ワイン、羅紗(らしゃ)、ビロード、胡椒、砂糖、ガラスと
呼ばれし物を見たり。これらを江戸への土産にしたきものなれど、旅半ばにして
思い果たせず。
                
つ と
 「阿蘭陀の 花を都の 土産にせん」                 俊愚

 唐人屋敷に新春の来たりて、人々の心浮かれけり。

 「街はもう 春節祝う 賑やかさ」                    俊愚





                
            M出島                N唐人屋敷跡


 そののち、不知火、島原、霧島を訪ねて薩摩潟へ至れり。
 島原は昔一揆のありて、多くの老若男女を失いけり。
 今は松平忠房候の治めし処にて、誠に梅の花の美しきこと限りなし。

 「梅白し 目白飛び来て 蜜を吸い」                  俊愚

 「梅の香や 蜜を楽しむ 小鳥かな」                  俊愚


                
                   O島原城


 不知火は昔、景行天皇御巡幸の折、闇夜の沖にて怪火(かいか)をめざし、無事
浜に着かれし処なり。
 春にわれ不知火を訪ねしに、怪火は毎年八朔(はっさく:陰暦の八月一日)の前
夜半(夜中の1〜3時)に現われしものなれば、思い果たせず唯春の海を眺めけり。
 これ神秘の火なれば、万葉の頃より歌われし、筑紫八代の海の名物なり。
 そこに松合と呼ばれし町あり。白壁の土蔵屋敷の立ち並びて誠に豊かなり。
 
 「白壁に 春のうつろい 桐地蔵」                    俊愚

 「早春の 闇に怪火か 漁火か」                     俊愚






               
           P不知火町松合          Q不知火海


 霧島にて、かの天孫降臨、天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫、邇々芸命
(ににぎのみこと)に拝し奉りて、逆鉾の剣を見たり。
 これ険しき山なれば、瓦礫に足を悩まし、息せき切って登りけるに、頂に上れば、
風強く龍雲走りたれど、空青く春の日差しの輝きたり。

 「高千穂や 春の降臨 神の山」                    俊愚


                
                  R霧島高千穂峰


 桜島を望みけるに、雨しきりに降り続きて煙も雲も一つになりて、山の稜線わず
かに見えて、勇ましきますらおの姿いかばかりかと怪しゅう見えて。

 「健男の 雨に春泣く 桜島」                      俊愚


                
                    S桜 島





 池田湖畔より開聞岳を望みし折、時しばし止まりて、音もなく風もなく何一つ
動かず、ただただ霞の空に心吸われけり。

 「薩摩富士 湖面を渡る 薄霞」                    俊愚


                
                    
21開聞岳


 薩摩より舟に乗りて薩摩潟をくだり、喜界が島に辿り着きぬ。
 島は硫黄の煙立ち上りて近寄りがたく思われど、小高き丘のありて椿の花に
覆われし美しき島なれば、孔雀の遊びて小鳥の島と見つけたり。
 われ小さき浜より小高い丘に登りて、俊寛堂を訪ねけり。
 しばし苔むす小道に足を踏み入れ竹林の中をくぐり抜け、その奥に椿の森を見
つけたり。
 如月(きさらぎ)の頃には椿の咲き乱れ、堂の周り真赤に染まりたると聞きしに、
弥生(やよい)となりて一、二輪のみ残りけり。
 今も鶯の鳴きて山川草木、わが命共に流れんと思われけるに、静かに祈りを捧
げ、俊寛の悲しみを弔いける。

 「うぐいすや 籠り戸ゆかし 竹の奥」                俊愚


                
                   
22俊寛堂





 帰路、日南、日向を抜けて別府に至れり。
 芭蕉の葉が青々と茂る日南の堀切峠にて、

 「日南の 芭蕉眼下に 春の海」                   俊愚


                
                   
23日南堀切峠


 日向にて七福神を巡りたり。
 日向青島神社にて、美貌と才智の神「弁財天」を拝みたり。

 「青き海 天の恵みか 春景色」                   俊愚


 俊愚還暦を過ぎ、一ツ葉稲荷神社にて「寿老人」に長寿を祈りけり。

 「願わくば 延命長寿 喜寿の春」                  俊愚


 満願成就を授けたる「福禄寿」を智浄寺に訪ねけり。
 芭蕉翁を背負いてここまで無事来たるを喜びつつ、更なる旅の安らかならん
ことを祈りて、

 「翁背に 満願成就 春の旅」                    俊愚


 毘沙門天と申す勇気と希望を与えたる神、妙国寺におわしける。

 「春の夢 毘沙門天に 託しけり」                  俊愚


 永願寺にて「布袋尊」に一礼して、   

 「花誘う 布袋の笑顔 身の宝」                   俊愚





 本東寺にて精進の神「大黒天」に絵の精進を誓って、

 「大黒の 小槌に誓う わが春よ」                  俊愚


 今山八幡宮にて大国主命の第一子「恵比須神」を拝みて、

 「古き神 春の山辺で 鯛を釣り」                  俊愚


 無事七福神巡りを終えて、次なる証を頂きたり。

          


 七福神巡りの後、天岩戸、高千穂峡並びに国見が丘へ足を伸ばしけり。
 
 天岩戸は、太古の昔より言い伝へし処なれば、心神妙にして参詣せり。
 昔古事記の曰く、天照大神(アマテラスオオミカミ)、須佐之男命(スサノ
オノミコト)の荒ぶりに怒りて天岩戸に引籠もりけり、世は闇となれり。
 八百万神々(やおろづのかみがみ)、天安河原(あまのやすがわら)に集
いて、天照大神を天岩戸より誘い出さんと謀りける。
 天鈿女命(アメウズメノミコト)、天岩戸の前にて賑やかに踊りけるに、そ
の騒ぎに何事ぞと扉を開き、顔を出したり。しかして天照大神の岩戸より出
で来たりて、高天原(たかまがはら)は明るくなりけるとかや。

 天岩戸神社を出でて高千穂峡へ向いけり。
 高千穂峡は谷深く、阿蘇の台地を支えるが如し。
 その谷底に下りて流るるせせらぎを眺めつつ、鶯の声を聞きたり。

 「谷深く うぐいすの声 天に聞く」                 俊愚




                
                  
24高千穂峡


 かつて、神武天皇の孫「建盤竜命(タテイワタツミノミコ)」が筑紫の国を治めん
とこの地を通りし折、四方を見渡しけるに「国見が丘」と呼ばれけり。
 古より雲海の名所として知られけり。共に遠く雲海を望みて

 「春雨や 国見の山河 雲の海」                  俊愚

                
                    
25国見が丘


 神々の国を巡りて後、別府へ至れり。
 別府にては湯に疲れをとりて、鉄輪(かんなわ)の湯けむりを楽しみけり。

 「鉄輪の 湯けむりの先 春の月」                 俊愚


                
                   
26別府鉄輪温泉


 その後、豊前(ぶぜん)の宇佐八幡宮に詣でけり。
 宇佐は、応神天皇の御神霊にて、八幡宮の総本宮なり。
 一位樫、大楠の聳え立ち、その新緑に心洗われる思い誠に尊し。

 「一位樫 楠の尊き 宇佐の春」                  俊愚


                
                   
27宇佐神宮


 志すことありて安芸の一宮へ詣す。
 宮島の景観これまた春斎のいいける日本三景の一つなり。
 厳島神社は推古の時代に端を発し、空海の開基、平家一族、源氏の厚遇を得
て、毛利、豊臣、徳川の庇護の下、太古から多くの信仰を集めたり。
 朱丹の大鳥居、本殿、平舞台そして舞楽を演ずる高舞台並びに海に浮きたる
能舞台、誠に美しき心ここに尽くせり。正にこの世の龍宮城の如し。

 「宮島や 鯛に身をかれ 子安貝」                俊愚


                
                   
28宮島厳島神社


 宮島より舟に乗りて伊予に渡りけり。
 昔飛鳥の世に斉明女帝ありて、新羅を討たんと舟を西へ進めたる折、道後
温泉に仮の宮を定めたり。
 道後の湯は古く、聖徳太子も来浴おわしけるとかや。
 雨の昨夜より降り続き、皐月朔日(さつきついたち)、朝湯に入りて漸く湯上り
と共に雨の上がりけり。



 「五月雨や はれて湯上り 朝の風」               俊愚

 「夏来る 湯流し響く 朝湯かな」                 俊愚


                
                   
29道後温泉本館


 道後より三津浜に至りて、昔ここより筑前に船出せし折、額田王の詠みし歌
「熟田津(にきたつ)に 船乗りせむと 月待てば 潮もかないぬ 今は漕ぎ出
でな」を思い出しけり。

 「熟田津の 潮みつ浜に 春の風」               俊愚


 そののち、三野津と申す津に至りけり。昔崇徳上皇を弔わんと西行法師の
讃岐の国へまかりこしたる折、備前児島よりこの津に着きて、「しきわたす 
月の氷を うたがひて ひびのてまはる 味のむら鳥」と詠みけり。
 ここ三野津に鼠島と呼ばれし島あり、潮満ちて小島となり、潮干きて島地つづ
きて海にいでたる。
 誠に自然の神秘ここにあり。潮は静かに引いて行き、いつしか大地が現れる。

 「汐干潟 浜に佇む 鼠島」                    俊愚


                
                  
30三野津 津島神社





 讃岐に参りてまず、空海ゆかりの弥谷寺(いやだにじ)を訪ねけり。百の石段
の手前、頭上高く微笑む金剛挙菩薩のおわしける。

 「挙菩薩の 微笑みうれし 遍路笠」               俊愚

                
                  
31弥谷寺


 引き続き、空海ゆかりの曼荼羅寺(まんだらじ)を訪ねけり。
 境内に西行法師の「笠掛櫻」と「昼寝石」のありて、法師がしばしば訪ね来た
る跡あり。昼寝石に座して遍路の読経をじっと静かに聞き入りたり。

 「お遍路の 読経を聞きて 昼寝石」                俊愚


                
                  
32曼荼羅寺


 弘法大師誕生の地に建つ善通寺を訪ねけり。
 別名、「屏風浦五岳山誕生院」と号し、寺の西には五岳の山々が屏風のごとく
連なり、その地を屏風浦と称しけり。
 門前にてつやのある讃岐うどんを食したり。これ極めて安きものなれど、その
味誠に贅沢の極み也。

 「うどん喰う 讃岐や春の 善通寺」               俊愚



 門前にて俊愚が絵を描きしに、小さき者ふたり絵の周りに集まり来たりて親し
げに遊びけり。ひとりは小姫にて、名を「佳菜」という。聞きなれぬ名のやさしか
りけり。寺はちょうど祭りにて多くの幟を見かけたり。

 「門前の わらべ親しき 幟かな」                 俊愚


                
                  
33善通寺


 西行法師の訪ねし道を辿りて、崇徳院白峰陵を訪ねし折、途中柿本人麿の
石中の死人を見て詠いし沙岑(さみね)の島を訪ねけり。今は沙弥島(しゃみ
じま)と申しける陸続きの島にて海人の舟の漂いけり。

 「春風に 身をまかせけり 帆掛舟」               俊愚


                
                
34沙弥島長崎鼻より


 漸く、崇徳院白峰陵に辿り着きぬ。
 西行は昔北面の武士、京の都にありて若き頃より崇徳院と親しけり。西行は
後に保元の乱にて流されし崇徳院の霊を慰めるべく白峰陵に詣拝す。
 
 「白峰の 御陵冷たき 春の雨」                  俊愚



                
                  
35白峰陵


 奢れる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、
ひとへに風の前の塵に同じ。源平の世の古戦場を訪ねけり。
 屋島は古代から船旅の要衝にありて、その見晴らしは瀬戸の島々を一望する
絶景なり。

 「のどかさや 目にしみわたる 瀬戸の海」           俊愚


                
                   
36屋島北嶺より


 源平の世は遠くにありて、今猶同じ山河ぞ残りけり。
 再び春の巡り来たりて、草木青く茂りたり。

  「源平の 世を知る屋島 目に若葉」               俊愚

                
                  
37屋島壇ノ浦


 屋島から船に乗りて、淡路島の松帆ノ浦に着きぬ。
 かつて定家の詠いし松帆ノ浦なり。
 夕影のせまりて鶯の鳴きたるは、誠に心わびしき風情なり。
 俊愚の絵描きたるを止めにけり。

 「夕影に うぐいす鳴きて 手を止める」             俊愚

 「ホーホケキョ 松帆ノ浦の 夕間暮」              俊愚

                
                  
38松帆ノ浦


 淡路岩屋の浜に、絵島と呼ばれし岩山あり、国生みの「おのころ島」とも伝え
られ、西行の歌に「千鳥なく 絵島の浦に すむ月を 波にうつして 見る今宵
かな」とありけり。 しばし、月の出を待ちたるに、月はようようにして丑三つ時
に出でたり。

 「待ちわびる 絵島の浦の 初夏の月」              俊愚

 「行く春や 丑三つ月夜 海人の船」                俊愚


                
                   
 39絵島


 旅に癒えて今や春野をかけめぐる思い、夢の内にもめぐりめぐりて、ついに
明石に辿り着きぬ。
 これすなわち、「不易流行」の志、古きを留め、新しきを求めんがためなり。
 行脚修行のなかりせば、なかなか鼠細工ばかりにて、世間広くは成りがたし。
 俳諧の道、浅き砂川を水のさらさらと流るるが如し、味ひ其中にあり。

 円熟して平淡の如く、枯淡軽快の匂ひ、その裏に幾萬無量の曲折、無数の崎
嶇波瀾(きくはらん)を有したるをこれ「軽み」といわんや。
 「軽み」とは象徴即姿にして、深層の心を含みたり。
 明石にありて柿本神社より、明石の海を眺めけり。

 「日は山に ゆったりゆれる 春の海」               俊愚


               
                  
40明石大橋


 わが霊は、明石より「笈の小文」の路を辿りて、布引(ぬのびき)滝、箕面(みの
う)滝を見物しつつ、高槻、京を抜けて膳所に入り、義仲寺に眠りたり。

 「春惜しむ 六甲下る 古き滝」                   俊愚

 「箕面滝 谷間深し 藤の花」                    俊愚

 膳所を時雨に旅立ちて、旅より戻れば五月晴れ、旅の無事を祝いて、膳所の義
仲寺にて奉扇会(ほうせんえ)を催さんと、人の多く集いて我を供養せり。

 「時雨旅 戻りて来れば 五月晴れ」                俊愚

 「夏告げる 旅路の別れ 奉扇会」                 俊愚

                                           完