どうしたら、真の芸術家になれるか。 芸術的な絵を描けるか苦しみたい。
山頭火は、苦しみの中から真のものが生まれると強く主張する。
私の生活は、山頭火ほど貧しくはない。 したがって、生活そのもので苦しむことはない。
また、私は山頭火ほど不幸ではない。 やや病気がちであり、癌にも悩まされているが、
現代医学のおかげで、ほぼ解決できる道筋はある。
私の絵と私の心が一体にならなければ、私の絵は我々の生命とはなり得ない。
絵を描く時の刹那的燃焼こそが、真の絵を描くことを可能にする。
剃刀のような、酔い覚めの水のような、摘み取ったばかりの果実のような作品を作りたい。
草の葉のそよぎ、風や大気の流れが、私の脈搏となり、呼吸となるとき、私の絵は生まれる
のである。 日が野の果に落ちて、何も聞こえず、大自然の静かな呼吸が描ければよいのである。
そこにより充実し、緊張したものがあれば充分である。 人物画を描く場合もそれと同じである。
すると、その絵の中に何ともいわれぬような「ある物」が存在し、真の芸術が生まれるのである。
私は、私自身を造り出せばよい。 私は私であれば足りるという人間になりたい。
真の個性は、地獄の苦しみから生まれるというが、地獄のような苦しみをどうやって自分に課せ
ばよいのか? 逆に、描けない苦しみを苦しみぬいて、大自然の静かな呼吸を描けるように努力
すればよいのか? 空には星が瞬いている。海は荒々しく波打っている。草の葉はそよぎ、小鳥は
自分のために鳴いている。 雲の漂うように、水の流れるように、小鳥が鳴くように、木の葉がそよ
ぐように絵を描こう!
生きることは、必ず死が来ることを悟ることから始まる。 死を考えることは、一つの悲痛なる事実で
ある。 その悲痛なる事実の奥底まで潜入することによって、死の苦しみに耐えうるのかもしれない。
それは、悲痛なる事実の奥底に向かって叫び燃ゆる心である。 音もなく香もなくしんしんとして燃
ゆる心である。 かゝる心が、死の苦しみに耐え、真の生命を生み出す「生のほのお」である。
コロリ往生を願って、山頭火スケッチ紀行の旅に出たい。
旅に出れば、浮き草のように、岸から岸へ漂う心を享受することができる。
水は流れる。 雲は動いて止まらない。 風が吹けば、木の葉が散る。
魚行いて魚のごとく、鳥飛んで鳥に似たり。 魚はどうやって泳ぐか、鳥はどうやって飛ぶのか考えな
がら泳いだり飛んだりしていないように、自分の心も自然に生きるべきだと思う。
これは道元禅師の教えで、それを体現すべく、行けるところまで行こう!
人間の生甲斐は、味わうことにある。 生きることは味わうことでもある。 旅をしながら味わおう!
その行為に徹することである。 旅人になりきることである。 車の中で、春雨の音を聴こう。
その音に聴き入りながら、ちびりちびりと酒を飲む。 水烏賊(みずいか)をつまみながら。
風景は風の光とならなければならない。 音は聲となり、形が姿となり、匂いが香りとなり、色が光と
なるように。 肉のペンに血のインクを含ませて描く如く、その生活感情をそのまま、まざまざと写し出
すことができれば、そこに芸術的価値が十分生まれてくると思われる。
禅の教えに、「知足按分」という言葉があるが、これを自分の座右の銘として、与えられた道をまっす
ぐに進んでゆくことこそ、私の進むべき人生である。
現在の境遇を自分に見合ったものと考えれば、日々心安らかに過ごし、絵を心行くまで描き切ること
ができる。 セザンヌはセザンヌ、ピカソはピカソ、マチスはマチスである。 自分を自分の自分として
活かせば、それが自分の偽らざる人生となる。
絵は、気合のようなもので、禅坊主の喝のようなものである。 自分に徹し、自然に徹することに
よって、色即是空、空即是色の世界に突入することができると思われる。
それが依然、半信半疑であっても、そこに心を集中して絵を描く努力をしなければならない。
私のスケッチ画は、ペン描きに水彩の色を載せたものである。 私はこの絵に徹し、とことん突き
詰める必要がある。 その中から自然に「ある物」が絵の中に生まれ出てくるように思う。
一切が絵画であるほどに徹底したほうがよい。 これが私の人生だ!
「火が登る 凍てつく空に 我を見る」
令和5年8月4日 (喜寿) 、 山頭火の考え方を踏まえて