地球は狭く小さくなりつつある。
時の流れは速く、過去はどんどん過ぎ去っていく。
時代は常に新しい変化を生み出し、過去にはないものがそこにある。
常に世界の現実と過去の歴史に感動しつつ、新しいものを生み出す
努力を絶やしてはならない。
「フュージョン」とは、異質のものを組み合わせて、有機的に結合し反応
させることにより、新たなものを生み出すことである。
血の通った感性により融合し、創造されたものは「フュージョン・アート」
である。
世界と過去とを一つの画面の中に混合し、溶かし込むことにより、新生
児を生み出すことができれば、「フュージョン・アート」は完成する。
いわゆる芸術上の核融合であり、隔世遺伝である。
その時代に生きた人のみが生み出せる新たな創造こそが、真の芸術である。
私は、自分の見たもの、感じたことを人に伝えたい。表現したい。
その手段として絵画と俳句を選んだ。 その2つをうまく融合させることはでき
ないか。 それには血の通った「フュージョン」が必要である。
「フュージョン・アート」こそ、多くのものを一つの画面の中に描き出すことの
出来る芸術である。
平成16年4月
人に感動を与えるためには、常に自分が感動していることが大切である。
わずなかことも感動できる感性が必要である。
感動は、血の通った人の心の故郷からやってくる。
人は故郷を自然に懐かしんでいる。
日本人の心の故郷をたどっていくと、万葉集に突き当たる。
万葉集の魅力は、人間的な生命力が脈々と流れ、その生命力がわれわれ
日本人に生な感動を呼び起こすところにある。
短歌の魅力も短い詩形の中に人間の生命力を盛り込んでゆくところにある。
これは日本の伝統すなわち文化の歴史でもある。
旅は人に感動を与える。 人生も旅と思えば、日々感動の連続となる。
芸術は、この感動を意識的、個性的に表現する手段である。
詩、絵画、音楽及び茶道等芸術の道に一貫して通ずるのは、血の通った生
の感動である。
芭蕉は、旅が常に新たな感動を生み出すことを願っていた。
旅には、苦しみと楽しみがある。一抹の不安があるが、期待もあれば夢もある。
そこにかつてない新しい感動が待ち受けている。
自然との出会い、人との出会い、それらはすべて自分の心の中に刻み込ま
れていく。
人生は旅であり、旅は感動の源である。
古来より、絵には大きく分けて2種類あり、「具象」を本来の目的とする絵と
「象徴」を目的とする絵が存在する。
必ずそこには、装飾性と写実性の問題が存在し、装飾性は象徴につながり、
写実性は具象につながる。
上述の「絵の本質について」にもあるように、「装飾性」とは、基本的には自然
の忠実な模倣とは対極するものあって、絵画でいえば、対象の記述的描写から
離れ、独立した色彩と線の相互作用によって絵画平面の統一性を強調する総合
的な効果です。
また、「写実性」とは、自然の外観ではなく、それを支配する根本的な基礎、
原理又は生命の本質なるものを、統一的な知恵でもって捉えることです。
私は、具象を装った「抽象の美」を描こうと思う。
そこには、「純粋な美の姿」=「無言の形」があると思う。
「極限的簡素化」=「単純化」に近いものである。
絵には、「固有の純潔さと強さ」がなくてはならない。
そこで、私は次のような表現を目的に、これからの絵画活動を展開したいと
考えています。
@ 象徴と具象の差が主張する微妙なバランスを保つ表現
A 日本画的な象徴と西洋画的な具象との差が、相互に相手の存在を生き
生きさせる表現
B あまりにも鮮明な象徴と具象が織りなす調和の世界を表現
C 分離して存在していた象徴と具象の絵画を一つの画面で調和的に組み
合わせる表現
平成30年5月15日 瑞宝双光章受章にあたり
絵は、モデルを選ぶことからスタートする。
何を描きたいかが大切で、何でもいいから描くというものではない。
何をどのように描くかが主題である。
必ずそこには、装飾性と写実性の問題が存在する。
「装飾性」とは、基本的には自然の忠実な模倣とは対極するものあって、
絵画でいえば、対象の記述的描写から離れ、独立した色彩と線の相互作
用によって絵画平面の統一性を強調する総合的な効果です。
また、「写実性」とは、自然の外観ではなく、それを支配する根本的な基礎、
原理又は生命の本質なるものを、統一的な知恵でもって捉えることです。
絵画は、こうした意味での写実性が個性的な造形表現を得たもので、そこ
には、「知的な調和」があって、形や色は違っていても、画面に現れているも
のは、実物そのものであることを感じさせることが大切です。
人物画は、線の美しさ、即ち自然に対して屈従的な「線的造形」を基礎とし
て、自然に対して自由で開放的な「色的造形」を加えて、画面に「知的な調和」
を与えるものです。
色彩は、我々の感情を表現するもので、構図もまた画家が表現しようとする
感情であって、装飾的造形によって整えるものです。
絵画の本質は、平面と色彩であって、ある秩序で集めた色彩でもって、平面
をおおいつくすことにより、一つの統一された画面を得るのです。
均整のとれた構図でよく構成された作品は、すでに半ば出来あがっているも
ので、熟慮させた構成と平坦な色面配合によって美的な情趣を創りだすのです。
例えば、シャガールの絵は、自然に画布の上に全てがほとばしり出た超自然
的な作品ですし、マチスの絵は、表現そのものを追求し、感覚の造形的秩序を
徹底して求めた作品となっています。
今日では、自然の色より象徴的な色を、知覚される現実よりも記号的な表現を
得て、再現的な美術から抽象的な美術に移行しつつあります。
そこには、日常的な意味とは別の意味へと我々を導くものがあります。
優れた作品では、画面がそれ自体として、そこに存在するということの美しさ、
何か具体的なものやイメージを想像してみるのではなく、目の前に具体的に現れ
ている形、色、構図をそのままに見ることを求められます。
見る者を圧倒し、ただ見ることを強いられ、見る者を黙らせる迫力が存在します。
絵画とはそういうものです。 (平成26年11月)
絵が表現するのは、事物ではなく、事物の絵画的見方である。
自然主義や写実主義のように対象を描くだけでなく、「対象の美しさ」を描く。
「個性」や「独創」とは、作者の強い精神であり、自分に与えられた能力や境遇を
越えて新たなものを作り出そうとする創造活動である。
そこには、絶対的に美しいものを描こうとする「作者の研ぎ澄まされた鋭い意識」
が必要である。
「美」とは、「絶妙な美しさ」であって、恋にも似て、何かひと癖あるが何かいいと
いったようなものである。
そこには、かゆい所に手が届かない何か気になる魅力、言葉では言い表せない
「無言の形」が存在する。
さらには「無欲・無心の美しさ」というものがある。
「決して創りだそうとしないで創りだされた絵」で、「究極の美」と思われるものであり、
芸術家の極意である。
あらゆる技巧を拒絶して、無意識のまま、究極の意識をもって描かれたものである。
それは、「天才」とよばれ、天から技が降りて来る「神業」に近い。
これは、神や仏がいるわけではないが、実際にいるかのごとく見えてくる。
現に「天才」と呼ばれる人たちがいる。 キリスト、釈迦、モーツアルトやランボーで
あり、セザンヌ、ピカソ、マチスであり、ゴーギャン、ゴッホである。
(令和2年9月追記)