芭蕉は以前から弟子達に「長崎」へ行きたいともらしており、亡くなる直前ま
で天橋立から長崎へ向い、彦山、不知火(しらぬい)、霧島そして薩摩潟へ行
く予定を立てていました。
 その旨を、弟子の去来(きょらい)や北枝(ほくし)、如行(にょこう)、荷兮(かけ
い)に伝えた書簡が残っています。

 
 
元禄三年一月二日、荷兮あて書簡:
   「越人へ冬申し達し候。・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    四国の山ぶみ、つくしの船路、いまだこころさだめず候。
       正月二日                          はせを
    荷兮様                                      」

   
 これは、近江国膳所から名古屋の門人荷兮」にあてた手紙ですが、
   
九州や四国への旅を心積もりにしているが、いまだに実現できないこと
   を悔やんでいます。

 元禄三年四月十日、如行あて書簡:
   「旧臘之御帖伊賀へ相達シ、・・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    持病下血などたびたび、秋旅四国・西国もけしからずと、先おもひと
   どめ候。・・・・・・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
       卯月十日                         はせを
    如行様                                      」

   これは、大垣門人「如行」からの書状に対する返信で、四国や西国へ
  の旅は痔病のためあきらめたといいながら、断ち切れない思いが伝わ
  ってきます。

 元禄六年十月十三日、北枝あて書簡:
   「上略・・・春は西国の望み御座候、冬中調へ申度候、・・・・中略・・・・
    西国へは何とぞ同行に致度候間、其御心得頼入候・・・・中略・・・・・
       十月十三日                       はせを
    北枝様                                      」

   これは、伊賀門人「北枝」にあてた手紙ですが、元禄七年の春に西国
  行脚に出る予定で、北枝に同行してもらうよう勧誘しています。

 元禄七年九月十六日、去来あて書簡:
   「彌御無異珍重ニ存候。申合候通、爰元住吉市後は橋立と志候。誰彼
    同伴之望も有之候へ共、先支考(しこう)、惟然(きぜん)迄と相究候。
    
・・・・・・中略・・・・・一年なりとも年若く病もつのり不申中、薩摩潟見申
    度ふり切て出申候。乾坤無住、水上の泡沫、稲妻之境界に候故行先
    野山草木の間にて土を枕として此生終り可
申覚悟に候。是を心の楽
    に彌相決候へば、天地の間居所究申間敷と存候。・・・・・・中略・・・・・・・・
    不知火は七月末此と聞候へば、関の渡りは朧月此にて可之候。
    彦山、霧島と打廻り候はば、彼是唐船を見候は子規も迎申哉。
    ・・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・
       九月十六日                       はせを
    去来様                                      」

   これは、京都門人「去来」に長崎行きについて打つ合わせた手紙で、
  住吉の桝市見物後は、直ちに天橋立に行き、長崎に向いて唐船を見、
  彦山、霧島、不知火、薩摩潟と巡見の予定なので、そのつもりで来るよ
  うにと告げて、先発して長崎で待つ約束をしています。

 また、江戸の門人「桃隣」の芭蕉語録として元禄七年五月八日(正しくは
五月十一日ともいう)、芭蕉が故郷へ戻る折に、品川まで送り出で別れの
時に、「此度は西国にわたり長崎にしばし足をとめて、唐土舟(もろこしぶね)
の往来を見つ、聞馴れぬ人の詞(ことば)を聞かん。」といって旅立ったそう
です。
 
 芭蕉は、新しもの好きで延宝六年(1678年)、オランダ商館長が江戸に
来て将軍に拝謁した折に、「かぴたんも つくばはせけり 君が春」 と詠み、
翌延宝七年には、「阿蘭陀も 花に来にけり 馬の鞍」という句を読んでい
ます。  
 時に芭蕉36歳、この頃からオランダには並々ならぬ興味をいだいていた
そうで、門人の去来と泥足(でいそく)が長崎出身であることも影響してか、
長崎という地への憧憬となって、いつの日にか長崎へ行きたいという思いが
募っていたものと思われます。





 元禄七年九月十六日に去来にあてた手紙を書いて後も、「猶筑紫下りの
志はやまず。」として次の句を詠んでいることが、「乞食嚢」に記されていま
す。

 「春に我 乞食やめても つくし哉」                  芭蕉
 
 春になったら、自分は乞食になろうとも病であっても筑紫へ行くのだという
固い信念が伺われます。


 さて、こうした芭蕉の思いをさらに膨らませて、もし芭蕉がこの西国の旅を
実現するとしたら、どうするかを芭蕉の気持ちになって考えて見ましょう。
 そのためのヒントとなるのが、芭蕉が41歳〜46歳の間に実行した5回の
紀行を振り返ってみることです。

 貞享元年(1684年)に「のざらし紀行」、貞享4年(1687年)に「鹿島紀行」
及び「笈の小文」、貞享5年(1688年)に「更科紀行」、そして最後に元禄2年
(1689年)「奥の細道」を行っています。
 これらの紀行文から次のような特徴があることがわかります。

 1 西行法師の足跡を訪ねる。
 2 歌枕を辿る。
 3 各地の蕉門を訪ねて、歌仙を巻く。
 4 万葉、源平のゆかりの地を訪ねる。
 5 神社、仏閣を訪ねる。特に仏教よりも神道に興味を抱いている。
 6 日本三景のような有名な史跡を巡る。
 7 能因法師の足跡にも興味を抱いている。

 以上の特徴を勘案しつつ、当時の交通状況を考えると、海路による船旅が
結構多かったのではないかと推測します。
 当時、西廻り航路が日本海沿岸から瀬戸内海を抜けて大阪まで来ており、
朝鮮及び琉球へ抜ける航路が、九州の北側から西側の沿岸に発達していた
と思われます。

 従って、大津から京都に入り、去来の住んでいる落柿舎を訪ねた後、周山街
道を北に上り、天橋立を訪ねた後は印旛まで船に乗り、砂丘を見た後、出雲、
石見へと船で渡ったと思われます。その先も壇ノ浦のある下関まで船で渡り、
その後船で博多に入り、大宰府、天満宮、彦山を巡って長崎まで陸路で旅した
ものと思われます。

 長崎にしばらく逗留し去来や泥足たちと歌仙を巻いた後、船で歌枕で有名な
不知火へ向い、陸路で霧島を通って薩摩に入ったものと思われます。
 鹿児島の港から船に乗り桜島を見ながら鹿児島湾を南に下り、目的地の喜
界島へ渡ったものと思われます。



 帰りは、船で鹿児島に戻り、さらに船で大隈半島へ渡り、陸路で日向へ抜け
て、九州の東海岸に沿って陸路で北上し、七福神めぐりをしつつ、天照大御神
のお隠れになた天岩戸を訪ねた後、古来から有名な別府温泉でしばらく逗留し、
旅の疲れを取ったと思われます。

 その後、宇佐八幡宮に詣でた後、別府に戻り、日本三景の安芸の宮島へ船
で渡ったものと思われます。その後さらに舟で、能因法師が下向したという伊
予に渡り道後温泉で天平の俤を偲びて後、西行法師が訪ねたことのある讃岐
へ向ったものと思われます。

 讃岐では、山家集に出てくるように、西行が訪ねた崇徳上皇の白峰陵及び弘
法大師のゆかりの寺、弥谷(いやだに)寺、善通寺及び曼荼羅寺を訪ねた後、
源平合戦の古戦場として名高い屋島へ向ったものと思われます。

 そこから船に乗り淡路島の松帆の浦及び絵島へ渡った後、最終目的地の明
石へたどり着いたものと思われます。

 芭蕉は、現在大津にある義仲寺に眠っているため、その後は、「笈の小文」
でも最後に辿ったことのある明石から布引滝、箕面滝を見物しつつ、高槻、京
都を抜けて膳所に入り、義仲寺へ戻ったものと思われます。
 
 以上が私が想定する長崎西国紀行の足跡ルートですが、上記の7つの特徴
を考えて設定したものです。

                                          以上


 

 
足跡を推定した根拠
幻の長崎西国スケッチ紀行へ戻る
幻の長崎西国紀行足跡図へ戻る