これは欲望の哲学である。

「欲望という名の染色体」はどこからやって来て、どこへ去るのか

 欲望は悪の根元であるかのようにいわれているが、本当は生命の根源と

なりうるものではないのか。

 昔、「欲望という名の電車」というアメリカ映画を観たことがある。

 テネシー・ウイリアムス原作、エリア・カザン監督の映画で、ニューオーリー

ンズを舞台に、欲望渦巻く人間の生活と、欲望と葛藤しながらもあえなく挫折

していく人間模様である。 

 人間は欲望の電車に乗って軌道の上を進まざるを得ない。人間は生まれ

ると同時に欲望を抱き、死ぬ直前まで欲望を消し去ることができない。

 欲望は人に大きな力を与えるとともに、大きな悲劇をももたらした。

 現代を象徴する物欲は、人を狂わせ、暴力をふるい、あるいは精神病やノ

イローゼといった逃避を繰り返す。

 現代社会は、デカルトが定義した「理性」を尊重するあまり、生命や精神を

物質化して、人間の心の中には、理性と物質としての肉体しか見えなかった

時期があった。

 そこからは、権力欲、支配欲、征服欲、所有欲、攻撃力等が生起し、生命の

物質化や人間の商品化を引き起こす「貧欲」の世界を生み出した。

 その冴えたるものが、エゴイズムとしての欲望であり、ナチスの犯罪、スター

リニズムによる人間殺戮、ベトナム戦争の正当化である。

 また、環境破壊、大量破壊兵器や最先端の生命科学などによってもたらされ

る現代社会の諸問題は、肥大した人間の欲望によるものと思われる。

 19世紀後半になると、ニーチェやハイデッカーにより近代哲学に対する批判が

生まれ、「(理性の)神は死んだ」ことをわれわれは知らされた。

 その後、フロイトの「無意識や性の意識」、ベルグソンの「純粋持続や直接的時

間体験」、西田幾多郎の「歴史的身体や行為的直観」、メルロ=ポンティの「知覚

現象」、鈴木大拙の「霊性的自覚」、ヤスパースの「二律背反」等にみられるような

「生の哲学」が展開された。

 過去において、お釈迦様はその教えの中で、人間の苦しみの原因は欲望に

ありと見て、苦行難行によってその欲望からの脱却を説きました。

 ダンテは神曲の中で、各階層の欲望を地獄の中に見て、煉獄の火で苦行

して罪を清めることにより天国へ行くことを願いました。

 これらは、アジアにおいては仏教的世界観として、欧米諸国においてはキ

リスト教的世界観として、人間の永遠の課題となっています。

 仏教では、自らの欲望と戦うために、「無」の境地を求めて無欲になり、自

己にとらわれない自由な世界に住もうとします。

 そして行き着くところは山川草木や日月星辰と一体となった大自然の神々

を求める宇宙観となります。

 一方、キリスト教では、自らの欲望と戦うために、慈悲と愛に満ちた人間の

心を求めて、自らの心を浄化した神々の世界に住もうとします。

 そして行き着くところは気高い理想的な人間像を求める世界観となります。

 しかしながら、人間は欲望をたちきることができたでしょうか。否といわざるを

得ません。それは何故でしょうか?

 それはちょうど欲望が生物の染色体のように生物の体内に宿っているかの

ように思われるからです。

 ここに敬虐な信者がいたとします。その信者が信仰し修行するのは、「敬虐

な信者になりたい。」と思う欲望の一形態に過ぎません。

 もし仏教によって自らを救おうとするならば、自分がお釈迦様になるまで修行

に励み、もしキリスト教によって自らを救おうと思うならば、自分がキリストにな

るまで自分を精神的に高めていく必要があります。

 欲望は、罪悪のように思われておりますが、人が生きられるのは欲望がある

からであり、欲望があるからこそ進歩し進化するのです。

 食欲がなければ生きていけませんし、性欲がなければ子孫も繁栄しません。

 また、人間は経験した不利益を二度と受けないように行動し、死に望んでは精

神的に自分に満足のいく自分を取り戻そうと欲望します。

 科学者も芸術家も哲学者も欲望があるからこそ新しいことを見つけ出す意欲

が生まれてきます。

 心を精神的に高め、欲望を正しくコントロールするところまで高められた欲望に

基づく「歓喜」は、人を突き動かすだけの躍動感に溢れ、新たな生命と創造を生み

出すに違いありません。

 さらに、これは人間に限ったことではありません。がん細胞の増殖も欲望とい

う染色体によるものであり、リンパ腺も欲望という染色体の働きによるものと考

えることができないでしょうか。

 例えば、阿古屋貝に異物を入れると、その周りに分泌物を分泌して防護し、体

内に残したまま生命を全うします。 また、機能が低下した臓器を他の正常な臓

器に移植することにより、医学的条件を満たすならば命を継続させることができ

ます。

 これらは、生命にとって欲望を満足することを示しているのではないでしょうか。

 もしそうでないならば、たちまち異常障害が起きて生命体が苦しむはずです。

 欲望がなければ、あらゆる生物、生殖体もしくは生命体は存続することが不可

能となるでしょう。

 欲望は生命のバローメーターであって、生きている証ではないのか。

 かつて、大乗仏教が大宇宙を説明したように、「欲望」と呼ばれる何者かによ

ってこの宇宙を説明することはできないであろうか。

 少なくとも「欲望」と呼ばれる何者かが、この宇宙を支配しているかのように見

えることは否定できない。

 「欲望」はどこからやって来て、どこへ去るのか。この疑問を永遠に消し去るこ

とはできない。

                                 平成20年7月


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欲望という名の染色体