詩歌は、古今東西を通じて人の心の琴線に触れてきました。

 日本では万葉の古来から和歌をはぐくみ、連歌を歌い、俳句の世界へと発展し、
今日では西洋の影響を受けつつ詩の世界が広がっています。

 一方、西洋ではダンテの詩をはじめとして、ユーゴーの詩に至り、近代において
は、エドガー・アラン・ポーの影響を受けてボードレールやマラルメ、そしてランボー
の世界が広がっています。

 芭蕉は、「不易流行」を解き、古きを留めつつ、新しさを求めることの大切さを強

調し、「深み」と「軽み」を求めました。
 「深み」は人の心の深さをいい、「軽み」は象徴の高さをいうように思います。
 俳諧の道は、浅き砂川を水のさらさらと流れるようにして、その中に味わいの深
さを感じるものであるともいっております。
 円熟して平淡の如く、枯淡軽快の匂ひ、その裏に幾萬無量の曲折、無数の崎嶇
波瀾(きくはらん)を有していることを「軽み」といっております。
 そこには象徴の高さがあり、品格の高い洗練された美的感覚及び詩的感性を感
じます。
 ここに、古来からはぐくんできた「美しい日本人の心」があると思います。

 一方、ボードレールはいっています。
 「おお、死よ、年老いた船長よ、時が来た、錨を揚げろ。
  この国に俺達は飽きた、おお死よ、船出しよう。
  もし仮に、空と海が墨のように黒くとも、
  俺達の心は、お前も知ってのとおり、光に満ちている。

  お前の毒を俺達に注げ、俺達に力を与えよ。
  その炎が激しく俺達の脳髄を焼くように、俺達は欲する。
  地獄であろうと天国であろうと構わぬ、渦の底に飛び込み、
  新しさを見つけんがために、未知の世界の奥底に
  飛び込むことを欲するのだ。」と。(悪の華「旅」より)

   ”O Mort, vieux capitaine, il est temps! levons l'ancre!
  ( 
オー  モール   ヴュー   キャピテーヌ、   イレ   トン!    レボン   ランクル!
    Ce Pays nous ennuie, o Mort! Appareillons!
  (
  ス   ペイ    ヌーゾンヌイ、   オー モール! アパレイヨン!     )
    Si le ciel et la mer sont noirs comme de l'encre,
  (
 スッ ル シエル エ  ラ メール  ソン   ノワール  コム    ド  ランクル、)
    Nos coeurs que tu connais sont remplis de rayons!
  (  
ノ   クール     ク  チュ  コネ      ソン   ロンプリ   ド レイオン!
    Verse-nous ton poison pour qu'il nous reconforte!
  ( 
ベルス   ヌ    トン  ポアゾン   プール  キル  ヌ    ルコンフォルツ!
    Nous voulons, tant ce feu nous brule le cerveau,
  ( 
ヌ     ブーロン、   トン   ス  フォー  ヌ    ブルール ル セルボー、
    Plonger au fond du gouffre, Enfer ou Ciel,qu'importe?
  ( 
プロンジェ   オ  フォン  ドュ  グフル、  アンフェール ウ  シエル、 クァンポルツ?) 
    Au fond de l'Inconnu pour trouver du nouveau !”(a ”Le Voyage”)
  ( 
オ  フォン   ド  ロンコニュ     プール  ツルーベ  ドュ  ヌーボー!      (ア ”ル ボワイヤージュ”)

 そして、さらに「美の探究とは、芸術家が敗れ去る前の雄たけびなのだ。」と。
 (「芸術家の告白」より)
 これは「詩の純粋性」を求める戦いであると思います。

 マラルメは、これをさらに発展させて、「詩的純粋性と完璧性」を追求します。
 言葉の一言一言が本質のごとく存在することを求め、最短距離でその本質を
表現する言葉を選択し、必要ならば詩的付加価値を与える新たな単語を創造し
ようとします。 そして、音楽的・暗示的な形で、直接つかみにくい内容を表現し
ようと努力します。

 「我は未知なることを待つ、終には冷え切った宝石と別れて」と。
 (「エロディヤード」より)

  ”J'attends une chose inconnue........Se separer enfin ses froides pierreries.”
 (
”   ジャトン    ジュンヌ  ショーズ  オンコニュ        ス  セパレ    アンファン セ   フロワド  ピエルリ”
  (a ”Herodiade”)
 (
( ア ”エロデアード”)
 さらに、ランボーは、意識的に直覚的に表現します

 「我、いくつもの不感の河を下りしが・・・・」と。(「酔いどれ船」より)

  ”Comme je descendais des Fleuves impassibles,.........”(a ”Le Bateau ivre”)
 (
”  コム    ジュ  ドソンデ      デ   フルーヴ   アンパシーブル、”       (ア ” ル  バトー   イーブル”)
 
 それらは、かなり精神性の高い詩的感性と美的感覚を持って歌うことにより、
「詩魂」や「言霊(ことだま)」を求めるという厳しく耐え難い「美の追求」であります。
 こうした「詩魂」や「言霊」というものは、日本人が古来からはぐくんできたもので
もあります。
 日本人は、古来から大自然の神々に対し畏敬の念を持って接し、「無」の境地
をもって山川草木と一体になった世界観をはぐくみ、そこから精神性の高い「詩魂」
や「言霊」といった美の根底に存在するものを掴み取ってきたように思います。
 これは、万葉集の時代から、日本人の心を通じて、古今集、新古今集、連歌、
そして俳句という形をもって伝えられ、日本人の美の心を形成してきたものであ
ると思います。

 俳句は、たった3語という短い言葉を使って、簡潔にかつ意識的、直覚的に歌う
ことから、精神的に高いレベルの象徴性すなわち繊細な詩的感性と美的感覚が
求められます。

 同じように、「詩的純粋性と完璧性」を追求する近代西洋詩の場合も又、精神性
の高い詩的感性と美的感覚が不可欠となります。
 ここに俳句と近代西洋詩の共通性を強く感じるものであり、最終的には近代の西
洋詩は俳句の世界を求めていくものでなないかと推察いたします。
 そこに芭蕉とボードレールの共通性を深く感じます。

                                   平成18年1月



 
随想集へ戻る
芭蕉とボードレール