人間は欲望の塊である。

 かつてお釈迦様はその教えの中で、人間の苦しみの原因は欲望にあり
と見て、苦行難行によってその欲望からの脱却を説きました。

 ダンテは神曲の中で、各階層の欲望を地獄の中に見て、煉獄の火で苦行
して罪を清めることにより天国へ行くことを願いました。

 これらは、アジアにおいては仏教的世界観として、ヨーロッパにおいては
キリスト教的世界観として、人間の永遠の課題となっています。

 仏教では、自らの欲望と戦うために、「無」の境地を求めて、無欲になり、
自己にとらわれない自由な世界に住もうとします。
 そして行き着くところは山川草木と一体となった大自然の神々を求める宇
宙観となります。

 一方、キリスト教では、自らの欲望と戦うために、慈悲と愛に満ちた人間の
心を求めて、自らの心を浄化した神々の世界に住もうとします。
 そして行き着くところは気高い理想的な人間像を求める世界観となります。
 
 
昨年、渋谷のブンカムラで日本テレビ主催の写真展「地球を生きる子供たち」を
見ました。
正に修羅場の映像です。
 人間の業というものが赤裸々に露出していました。

 人間はあまりにも人間中心主義に陥り、自然を破壊し、人のみでなく、ありとあら
ゆるものの命を奪って行くように思います。
 特に自分の利益にかかわることは、自分を中心に考えるのが人間のようです。
 仏様のような心を持った人が、窮地に立たされると、突如として変身し、あくどいこ
とを平然と考える場面をよく目にします。

 私自身を考えてもないとはいえません。
 さらに恐ろしいのは、自分はそのような人間ではないとほとんどの人が思っていると
いうことです。

 人間の歴史が始まって以来、何千年、何万年と同じ事を繰り返しております。
 その間、仏教が生まれ、キリスト教が生まれましたが、相変わらず同じ事を繰り返
しております。

 昔と違うのは、むしろ人間が、
徹底的に自然を破壊していることでしょう。
 私はこの写真展を見て、また同じことが繰り返されるだろうと思いました。
 むしろ、もっとひどいことが起こるのではないかと思
います。

 子供の明るい顔を見たい。誰しもそう願っているでしょう。
 その思いは、何千年も前の人にもあったはずですが、今もまた同じ事を願っている
のが人間でしょうか。


 今から1200年前に末法思想が生まれ、天台宗の最澄、密教の空海、浄土教
の源信や法然、そしてそれらに反発する
かのように、親鸞、道元、日蓮の各宗派が
生まれて、人間とは
何かを問うて来たように思います。

 永遠に尽きることのない大自然の神秘は人間をどこへ連れて行くのでしょうか。
 私には到底分かりません。人間の行き着くところはどこなのか。
 おそらく、人のために努力し、人のために尽くしていかなければならないのでしょうが
私は今自分のことしか考えていないのが
事実です。

  こんなことでよいのかとも思うことはありますが、マザーテレサのように恵まれない人
を助け、命がけで世の中に尽くす人間にな
れそうもありません。

 人間の欲望は尽きることがないのでしょうか。
 むしろ、欲望があるからこそ生きられる、生きるためには欲望が必要なのでしょう。
 食欲がなければ生きていけません。性欲がなければ子孫は繁栄しません。

 また、欲望も悪いものばかりではありません。自分の欲望を生かして詩を歌うことも
絵を描くこともできるでしょう。
 その欲望を絶つか絶たないかが問題ではなく、どのようにして制御していくかが問
題なのでしょう。

 私も後10年もしくは20年生きられるか知れませんが、自分の持っている欲望を
活かして、
わずかな時間を、生き生きと生きたいと考えております。
 死ぬ直前に、「自分はこれでよかった。」といえる人間になりたいと思います。

                         平成18年1月、 今年還暦を迎えて

 
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人間と欲望について