初めに小さな生命細胞が生まれて徐々に醸成され心が生まれてくる。

 その心は大いに人生を楽しみ大いに悩み、最後にはその心の整理に

苦しむ。

 心を整理するには、長い年月がかかり、事前の準備とそれに伴う努力

が必要である。

 死はいつやってくるか。 死は突然やってくる。

 そこで普段から心の備えが必要であろう。

 人は、死に直面すると心が乱れる。

 がしかし、死にたくなれば、死を恐れなくなると考える。

 例えば、次のような場合である。

 @ 興奮状態で、自殺する場合

 A 自分の生命が、物理的に無理だと悟った場合

 B 死ねば楽になると悟った場合

 C 死ねば天国に行けると悟った場合

 D 自分の人生に満足し、やり残したことはないと悟った場合

 私は、Dの精神状態を掴みたい。

 その乱れから解放されるためには、心の満足すなわち精神的な充足感

が必要である。

 心を満たすことにより、肉体的な痛みや苦しみに耐えられるのではな

かろうか。あるいは又、癒すことさえ出来るのではなかろうか。

 それとも、苦しみを紛らすだけかも知れない。

 人が出来るのはここまでであろう。

 死は、ある日突然やってきて、精神的にも物理的にもすべての活動が

停止する。このとき人は、停止するまでじっと耐えるしかない。

 耐える力の源は、「心の充足感」である。

 老いて身体が衰えていく中で、死を直視していく人と、死を見ようと

しない人がいるのではないか。

 私は前者でありたい。そのためには、耐えることを意識して生きていく、

じっと耐えて呼吸の停止を待つことのできる人になりたい。

 昔の人の歌の中に、しっかりと自分の死を見つめるものがある。
 
 柿本人麿の歌

  「石見のや 高津の山の 木の間より この世の月を 見果てつるかな」

  「鴨山の 岩根し巻ける われをかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ」

 大津皇子の歌

  「ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」

 在原業平の歌

  「ついに行く 道とは兼ねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを」

 西行法師の歌

  「願わくば 花の下にて 春死なむ この如月の 望月のころ」

 能因法師の歌

  「あしびきの 山下水に 影見れば 眉白妙に われ老いにけり」

 李白の歌

  「白髪三千丈       (はくはつ さんぜんじょう)

   縁愁似箇長       (うれいによりて、かくのごとくながし)

   不知明鏡裏       (しらず めいきょうのうち)

   何処得秋霜       (いずれのところよりか しゅうそうをえたる)」

 松尾芭蕉の歌

  「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」

 老いるとは、死への挑戦である。

 これが死というものか。
                                      平成16年4月


























母へ捧げる歌
(平成十六年三月二十五日、母の死に際して)
母の人生は、立正佼成会に入会以来、約50年の長きに渡り仏教を広めるという

よりも、お釈迦様の教えを守り、自分と同じ悩みをもった人の心をなぐさめ、励ます

ために生きてきたように思います。

 母の生涯を振返ってみますと、当初立正佼成会の会長先生だった庭野日敬先生

や妙佼先生を通じてお釈迦様の懐へ飛び込んで行ったというのが私の正直な印象

です。
 旧暦の2月15日はお釈迦様が亡くなられて入仏された日でございます。

今から約1000年ほど前、「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」と歌われ

た源平合戦の時代に生き抜いた西行法師の歌の中に「願わくば 花の元にて 春

死なんこの如月の望月の頃」という歌がありますが、西行法師は花が大好きで、

かつまた自分もお釈迦様と同じ2月15日に死にたいと願い、実際に2月15日になく

なったと聞いております。

旧暦の2月15日は、今日の新暦で申しますと、約1ヵ月から1ヵ月半月日が後ろへ

ずれますので、ちょうど今ごろの桜が咲き始める頃に当たります。

 母も花が大好きで、お釈迦様が入仏されたこの時期に桜の花の元で冥土へ旅立

つことを喜んでいると思います。

 「ついに行く 道を誘う 桜かな」


 この歌を母に捧げて母の冥福を祈りたいと思います。

 これから桜が満開になって散って行く花びらを見るたびに、その間をぬって、冥土へ

旅立つ母の後姿を思い浮かべて参りたいと思います。

 お母さん、その細い腕で、父の面倒を見るとともに、私達3人の子供を育ててくれて

有難う。 お母さん、長い間ご苦労様でした。









 

父へ捧げる歌
(平成十六年四月七日、父の死に際して)
 父は、2歳のときに実の両親に死に別れたものの、西田の両親の愛情を受け、素晴

らしい母ともめぐり合い、幸せな人生だったと思います。

 父の傍には母がおり、母の傍には父がいるというのが私の子供の頃の印象でした。

 父が怒っているのを見たことがなく、私ども3人の兄弟姉妹も父の後姿を見て育って

きたと思います。

 母の印象が、桜の花の色ならば、父の印象は、黄色い菜の花の温かさでありました。

 父は健康にも恵まれ、80歳まで元気に働いておりましたが、昨年12月に腸癌の手術

を受け、手術は成功したもののその後徐々に身体が蝕まれ、多臓器不全と脳梗塞で老

衰に近い状態で静かに眠りにつきました。

 この間、私どもは、父にとって充分な介護をしてやることは出来ませんでしたが、私と妻

の身体を心配して、息子や娘たちが一緒になって勤務や通学をするかたわら、代わる代

わる朝3時、4時頃まで介護を続けて参りました。

 子供達は祖父母の姿を見て育ち、子宝に恵まれたことを父も喜んでいると思います。 

 また、父と母は仲が良く、「おしどり夫婦」と呼ばれておりました。この度、母の跡を追うよ

うにして亡くなったのは、その証拠ではないかと考えております。

 恐らく三途の川の手前で母が待っていて、一緒に手に手をとって渡っていくのではないか

と思います。

 「春の川 渡るおしどり 父母の影」 

 この歌を父の霊前に捧げ父の冥福を祈りたいと思います。

 お父さん、われわれ子供達に愛情をたっぷりくれて有難う。
 
お父さん、長い間ご苦労様でした。 


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死について